小安温泉の歴史探訪
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小安温泉開発の伝承   温泉の発展
小安温泉の開発の由来伝承については、資料や言い伝えに乏しく、詳細、正確なことが分からないのが実情である。わずかに現存している、佐藤湯左衛門家所蔵の「湯左衛門日記」、今野宅兵家所蔵の「小安温泉の記」、また、村の歴史が編まれた「皆瀬村史」などを元に考察すると、小安温泉の昔の姿が、浮かんでくるのである。
いまから400年ほど昔の温泉地は、現在のような街道筋になっておらず、深山幽谷の中に「カラフケ」となって、少量の湯が噴出していたものと思われる。 ただ、朝夕は大量の湯気が立ちこめ、別世界を感じさせていたと考えられる。 当事、陸奥の国へ越える間道は、対岸の滝の原、滝向、桂沢、を通っており、950年前の(康平2年)前九年の役には、増田(真人)の清原武則が、源義経の依頼を受けて、一万の軍勢で花山へ向かったと言い伝えている。
文字越(旧街道)入り口
文字越(旧街道)入り口(国道398号線、宮城県境付近)
また、910年ほど前(寛治3年)頃には、金沢の柵へ向かう源義経の率いる一群が、この道を通ったとも言い伝えれている。この頃になると、川向村では稲作が盛んで、ほぼ現在に近い勢いで開田が行われ、小安村あたりまで来ていた。 小安から奥は、小安沢の険があるため開発することができないでいたものと考えられている。 ただ、温泉の地へは、山子、猟師達が通っていてものと思われ、伝承によると「カラフケ」の湯で、鶴が傷を治していたとか、カモシカが傷を癒していたのを見て、温泉の効能を知っていたといわれている。 400年ほど前になって、小安村(元小安)で百姓をしていた、久蔵なる者が、温泉の開発を思い立って現在の温泉の地に湯坪を作り、近在の住人に利用してもらったところ評判がよかったので、60間に100間の敷地を作り住居を建てるまでに至ったと記されている。 この間50年。1652年(承応2年)、今から350年前に小安より引き移ったとなている。(湯左衛門日記)。
温泉の開発は勿論、小安沢越えの難道の開発など、苦労が多かったと考えられ、多くの協力者もあってできたものと思われる。 久蔵は、小安(元小安)を出る時、小安の野田にあった滝ノ明神を遷したといわれ、女滝明神 といって、 湯左衛門家では、2月の初午の日、盛大に祭ったと言い伝えられている。
 
小安温泉の地は、当初「小湯」と言われ、口伝えに近郷近在に伝わり、湯治客でにぎわうようになった。 当事、佐多家藩直轄の鉱山として、隣村の院内銀山が栄えており、藩の役人が鉱山を見回りに来ていた。 たまたま「小湯の湯」の効能を耳にし、久保田の藩役人も訪れたのである。
1661年(寛文元年)340年前、藩家老梅津主馬が湯治により、この時、薬師堂を建立したとされている。 まもなく、湯左衛門が湯守に任命され、湯治客より湯銭を徴収し、運上銀を藩に収めるまでになったのである。 湯左衛門日記によると、1689年(元禄2年)300年程前後から、年間、銀330目あるいは三年間金40両掛切りなど、藩に納める金額も多額のものになっており、 温泉が隆盛をきわめていた。運上銀納入者として、湯左衛門、三左衛門、宅兵衛などの名が見られる。
1683年(天和3年)320年ほど前には、湯左衛門屋敷として、にしは大道切、北は沢切、南は細道切、都市、 そのほかに小屋掛け入湯の者から小家賃を取ってもよいとの記録も見える。
小安番所の変遷
小安番所については、1500年(永正年中)500年ほど前、稲庭、小野寺氏により、小安惣兵衛が番所に勤めた(阿部明所蔵 御古来からの聞き書き)となっており、佐竹時代になって、1675年(延宝3年)320年ほど前、関所定番に、小安惣兵衛がなっている。 1681年(天和元年)には小安番所となっている。 この頃になると温泉の地は湯元と呼ばれ、(不動橋も完成して)、人々の交通の流れも川向道、畑等道の両方となったと思われ、小安惣兵衛宅の番所では、取り締まりに不向きになり、 1682年(天和2年)に小安番所は温泉の呼び名が「小湯」~湯元~小安へと変っていったのである。番所へは、湯沢から南家藩士3名が半月交代で、務めたのであった。 湯沢から見ると、湯元は小安番所であり、小安湯治となったのである。以後、小安村は本小安(元小安)と呼ばれたのである。
現在の小安番所(湯沢市皆瀬、小安温泉)
現在の小安番所(湯沢市皆瀬、小安温泉)
天樹院公(義和)領内巡回   物資の中継地としての温泉
1811年(文化8年)190年ほど前の6月に仙北領内巡回の途中、小安温泉を訪れ、ご一泊なされた。 記録によると、お供物総勢およそ300人であった。御本陣は「宅兵衛」家であり、お供は各家々に分宿したものと考えられる。 小安温泉に至るまでの道路は整備され、温泉の設備も一新されたものと思われる。 不動橋も新しくされたとなっている。村内にも天樹院公にまつわる伝承が、沢山残されている。
三本杉
三本の巨杉は樹齢800年とも言われ、前九羊の役に際し源義家が手植したものと言い伝えられる。旧花山越、文字越の御助小屋はこの近くに在った。
 
1700年前後(元禄の頃)300年ほど前より藩に収める運上銀の記録が増している。 (湯左衛門日記)このことから考えるに、近郷近在及び湯沢、久保田などから湯治(病気治療や保養)のため客が増加し、温泉がにぎわったものと思われる。 また、江戸時代後期(200年ほど前)文化年間になると、仙台領から運ばれてくる物質を商ったといわれている。
この頃訪れた、菅江真澄の記録によると、温泉の家人として佐藤湯左衛門、伊藤多郎兵衛、佐藤久四郎、佐々木重右衛門、市川平助、佐藤久兵衛、佐藤佐兵衛、佐藤五郎作、吉田兵五郎、今野宅兵衛、今野喜内、今野湯左衛門、柿崎十三郎など14戸が記されている。 1837年(天保8年)170年ほど前、気仙沼から御救米買付けのため、矢島藩まで行く熊谷新左衛門の書いた「秋田日記」という記録によると、当時の小安温泉の様子が、挿絵入りで詳細に書かれている。湯左衛門家を宿泊基地として、由利地方矢島に行き、米千俵を買付け、文字越えで気仙沼まで運んだと言われている。
小安温泉では、行き帰りに宴会が開かれ、芸者を上げ、笛、太鼓、三味線でもてなされたとなっている。 この当事、畑等、川向村の人々は、国越えの荷があれば、おふれ一つで、背負子として温泉に集合し荷を運んだという。 このように、小安温泉は、温泉湯治・保養・歓楽・交易の場として、江戸時代中期から明治時代前期までにぎわったが、反面大飢饉や戊辰の役など、人々が生死をさまよう地獄模様も数々見ながら、現在に至ったのである。
記:旧皆瀬村文化保護協会長 阿部榮一

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